こんばんは!
駆け込みでワンピースの映画を家族で観て、大号泣していたタロット占い師の一宮ゆりです。笑
いつも絶対泣いちゃう。ワンピース。
昔からシャンクスが好きすぎて結婚したい(*ノωノ)
という感じでなんだかいつも通り今月も平和に過ごしていましたが、今年のイヤーリーディングでは年間の状況として「混沌と対立」がテーマになっていた私。
特に今月はそこを注意しなくちゃいけなかったんだけど、そもそも対立の感情が欠落していることに最近気づいてしまった。笑
そこで今回は「対立」について考えてみようと思います。
イメージとしては「勝ち負け」や「マウント」みたいな言葉が思いつくけれど。
私が感じる「対立」はちょっとズレてるとこにあるかもしれない。
それではいきましょう(*^^*)
承認欲求は相手への期待感から生まれる。
人は誰かと対立するとき、己の正義を掲げてぶつかり合います。
わかってほしい。
あなたならわかってくれるよね。
どうしてわかってくれないの?
わかってくれるでしょ?!
いい加減わかってよ!!!
という感じで自分に共感してくれるか否かで敵味方に分けてしまうんです。
相手に「拒絶された」と感じ、怒りの感情が生まれ、攻撃的になる。
その根本的な原因は個人的な承認欲求にあります。
そしてその承認欲求は相手から見返りを求め始めた時点で表面化します。
相手をコントロールしようとしたとき、手っ取り早く何かを与えてお返しを期待する。
だがしかし。
何か「してあげる」ことで、相手から何か「してもらう」ことを求めるのは「押し付け」でしかありません。
それが無償の愛ならば、見返りは求めないし与えること自体が喜びになるはず。
与える側も受け取る側もそれが無償の愛ならば、相手がどんな振る舞いをしようが何の問題もありません。
だって与えるだけで幸せホルモンが出るから、ただただ楽しいだけだもの。
もし拒絶されたとあなたが傷ついて、相手に怒りを覚えている場合。
それは何かを「してあげているふり」をしながら、実はひそかに相手から何かを「してもらおう」としているのかもしれない。
相手も同じように承認欲求をぶつけてくる場合はケンカに発展するけど、そもそも相手はあなたに期待をしていない場合もあるから、その時はあなたの独り相撲になる。
ここでひとつ。
相手に期待するって楽しいですか?
私は昔から、誰かに期待するって無いんです(*‘ω‘ *)
いい意味でね。笑
人はそれぞれ価値基準が違うし、コントロールはできないですから。
私はセラや今までお付き合いしてきた男性達にも、プレゼントを渡したり料理を作ったりするのが大好きでした。
それはただただその人の事を想って、プレゼントを選んだり料理を作っている時間がとてつもなく幸せだったから。
お渡しした時の驚いた顔や笑顔が見られれば十分。
迷惑がらずに受け取ってくれたってホッとするしうれしい。
だからといって、相手に何かを期待するということはありません。
期待してほしいって言ってきた男性もいたな。
頑張ろうって思えるらしい。
でも私は、期待されたい人って、私にも期待してくるから苦手です。
期待=愛情
ではない。
あくまであなたと私の課題は別だから、お互いに自分の人生を生きていく中で刺激し合ったり寄り添えればいいと思っています。
それが出来ないなら、好きになる相手を間違えただけだと思う。
少なくとも私は、そこには当てはまらない。
誰かに期待してお金も時間も使うなら、自分自身を高めることに使ってほしい。
期待しなければ承認欲求は生まれず、期待を裏切られたと勝手に傷つくことも無くなります。
それでも求めるものが多いのであれば、自分をブラッシュアップして、最初から期待通りの人を引き寄せる方が幸福度の高い人生を送れるんじゃないかな。
被害者を装うことは攻撃手段のひとつ。
次は被害者意識についてです。
まず最初にお伝えしたいのは事件事故などの被害者と、ここでお話しする「被害者を装う人」は全くお話しが異なりますので、ご理解いただけますと幸いです。
それでは本題。
自分を「被害者」にしておくのは、攻撃のひとつだと言われています。
私はこんなに傷ついた!
あなたはとても酷い人間だ!
ほら、苦しんでいる姿を見るがいい!!
みたいな。
ちょっと怖いよね( ;∀;)
人間には必ず「善意」があります。
小さい頃から学んできた「道徳観」も、ここでは「被害者を装う人」に利用されてしまいます。
例えば職場で対立を促す人って、大概が「○○さんってムカつく」と言っても共感を得にくいから「○○さんに酷いことを言われた」「○○さんに嫌われてるのかな」って被害者として人に話したりする。
そうすると「○○さんって酷いね」「私はあなたの味方だよ」となる。
そうなれば○○さんは孤立していき、被害者を装う人が有利な立場となります。
あくまでこれはうまくいった場合。
ある意味そこで気が済んじゃえば、対立はせず問題自体が水面下で落ち着く場合もあります。
だがしかし。
大抵の場合はみんな大人だし平和に過ごしたいから、問題のある人なら余計に賛同しなかったりする。
すると対立を生みたい人はフラストレーションが溜まっていき、より強く被害者を装って周囲を巻き込もうとします。
そこでひとつ思うこと。
この「被害者を装う人」は、相手や周囲の人達が自分に興味を持っている前提で、訴えかけてくるのよね。
うーーーん。
人付き合いで一番苦手なのが、この意に添わない同意を強く求められること。
正直、そこまであなたに興味ない。
と一種の「圧」のある人に対しては内心思ってしまいます。
よっぽど自信があるか、自分大好きか、逆に自信が無いから味方が欲しいのか。
どちらにせよ、それはその人自身の問題です。
もしもあなたが相談に乗る側だったとして、そこまでその人に興味が無いのなら、応えてあげる必要は特に無いと私は思う。
そしてもし、あなた自身が被害者を装ってしまうのだとしたら、問題は全く別のところにあって、そのストレスを対象にぶつけているのかもしれないと、自身を顧みてほしいです。
根本的な部分を解決しない限り、いつも誰かを攻撃しながら生きていかなければいけなくなる。
それはあなた自身も無意識のうちに、幸福度の低い人生を選択していくことに繋がっていきます。
対立の種が現れたら喜んで手放す。
自分自身に生まれた「対立の種」なら意識的に改善することも可能ですが、他者から降り注ぐ「対立の火種」は災難でしかありません。
今までお伝えしてきたように「承認欲求や」「被害者意識」はその人自身の問題だから、その感情の矛先がこちらに向いた時に受けて立てば「対立」が成立します。
だがしかし。
受けて立つ人を見ると、私の場合はそこに「親切心」というキーワードが加わるんです。
「親切な人だな」
「優しい人だな」
「とても大切に想ってるんだな」って。
わざわざ対立してあげるのって、時間もエネルギーも必要になると個人的には思ってて。
売られたケンカに乗るのも親切心。
言い争ってあげるのも親切心。
よっぽど大切な人でない限り、私はそこまで優しくないから、同じ土俵では戦わない。
嫌な想いをしながら相手の落ち度を指摘して、成長の機会を与えて差しあげる必要もない。
だからこそ、売られたケンカは買わないし無駄な争いにも参加しません。
じゃあどうするのか。
私の中に生まれた感情を感謝の気持ちで包み込んで、そっと手放します。
具体的には
「その気持ちには応えられないの
ごめんなさいね。」と距離を置く。
お付き合いの度合いによって時間がかかる時もあるけれど。
興味を持ってくれてありがとう。
ご縁に感謝。
どうぞお元気で。
というふうに心の中でさよならを告げる。
そして、それ以上はその人に対して何の感情も生まれなくなります。
そうやって誰かと「対立」する場面に遭遇したとしても、肩の力を抜いて自分の課題は何かを見失わなければ争いに発展するようなことは無くなります。
物事によっては悲しみや憤りを感じることがあるかもしれないけど、自分自身が大切にしている人と笑い合っていれば、その出来事さえも過去のものとして昇華されていくんです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
対立を生む人は依存体質でもあるから、人と自分の境界線が曖昧だなって見ていて思います。
私の問題とあなたの問題。
そこを切り離して考えられないと、人と長く付き合うほどぶつかりやすくなるし、気づかないうちに相手に不快感を与えてしまう。
適切な距離ってやっぱり大事よね(*‘ω‘ *)
私も気をつけよう。
ではでは。